浜松ぎょうざのこれからの目標
ビッグ3が製造する車の燃費は、平均で一リットルあたり五・五キロというお粗末だった。
すでに石油輸入国に転落していたアメリカの現実を前に、政府もようやくヨーロッパや日本のように省エネ政策を進める決定を下した。
石油の供給不安は国家の安全保障にもかかわってくる問題だったからである。
一九七五年十二月、米政府が発表した長期的な石油節約計画によって、自動車の燃費を、一九七八年には一リットルあたり七・六キロ、八O年には八・五キロ、八五年には十一・七キロと、段階的に改良していかなければならなくなった一社が生産する車全体の平均値、メーカーにとつてはきわめてきびしい規制だった。
シンクタンクの試算では、この基準をクリアするためには、各社平均六百億から八百億ドルもの開発投資が必要になるといわれていた。
各社の資本金に匹敵する額だった。
それもブ段階的とはいえ、十年という期聞は、メーカーにとってはあまりにも短かった。
デル・チェンジを行なって、目標値を達成していかなければならなくなったエンジンの改良や開発はもちろん、それまでの主流だった四0001六000αの大型車をモデル・チェンジのたびにサイズダウンしていかなければならなくなった。
うえ、二OOO∞以下の小型車にも本腰を入れ、割合をしだいに増やしていく必要があった。
ど深刻さをもちあわせていなかった。
なぜなら、アメリカでは第一次石油危機後もそれほどガソリンの価格が上がらなかったからだ。
アメリカ政府は原油価格の上昇にともなうガソリンの値上げを抑える政策をとったため、たしかに小型車の需要は増えていたが、圏内には相変わらず大型車が走りまわっていた。
一九七九年一月のイラン革命を契機として起こった第二次石油危機では、さすがのアメリカ政府も従来のガソリン価格を維持できなくなった。
輸入不足からアメリカ国内のガソリンが原油の値上がりに連動して、一挙に二倍になったのである。
アメリカ国内にはインフレと不況が襲い、失業者が激増した。
からも原油の値上がりが予想され、維持費がさらに高くなるおそれが十分にあった。
ようやくにしてアメリカ人の車に対する考え方も大きく変化し、ステータス・シンボルとしての自動車のもつ意味は薄れてくる。
もともとアメリカ人は、生活面において、実利的で合理的な考え方をもっていた。
それまでの大型車から小型車に買い替えるユーザーが急増することになる。
一九七八年までのアメリカにおける大型車と小型車の購入比率は六対四だった。
それが、翌年には一挙に逆転して四対六となった。
一九七五年に発表された燃費規制からまだ四年しかたっておらず、ビッグ3では、まだ小型化と燃費の向上が進んでいなかった。
そこでやむなく、ドイツやフランス、ブラジルなど海外の子会社ですでに生産されていた、急速開発した小型車を、国内市場に投入した洗練された日本車と比べ、性能、品質において魅力に欠け、売れ行きはさっぱりだった。
日本ではガソリンの価格が高かったため、すでに燃費をよくするための努力を積み重ねており、一九八五年の燃費規制をクリアできる見通しもついていた。
それに、日本は国をあげての省エネへの取り組みが、早くも効果をあげていた。
だから、第二次石油危機のときは、第一次ほどの影響はなかった。
ここが、日米自動車産業の明暗を分れる分岐点となった。
アメリカの市場で日本車がもてはやされ、日本から輸出される小型車は激増した。
それも、プレミアムがつくほどの大人気で、車の供給が追いつかないほどだった。
六0年代の対米輸出の主役はトヨタと日産だったが、七0年代になると、クライスラー!と提携した三菱、ロータリー・エンジンで世界の注目を集めたマツダ、オートバイでアメリカの若者の心をとらえていた本田も輸出を急増させた。
ことに本田は、四輪車メーカーとしては新入りであるにもかかわらず、新開発のCVCCエンジンを搭載した日米の巨大メーカーをさしおいて、一九七五年の排ガス規制に一番乗りで合格したためだった。
続く「アコード」も圧倒的な人気を得る。
それにひきかえ、ビッグ30が生産してきた大型車の売れ行きは、極端に低迷した。
第二次石油危機の翌八O年、日本車の生産は一千百四万台となり、アメリカの八百一万台を大きく上まわって、初めて世界一の座に着いた七0年代の十年間における世界の自動車総生産台数の伸びは約九百二十万台だったが、うちの六二パーセントを日本車が占めていたのである。
いわば、日本の一人勝ちである増加分の多くがアメリカへの輸出に振り向けられていた。
対米輸出は一九七O年が四十二万台にすぎなかったが、八O年には六倍の二百四十万台に達していた。
このため、デトロイトには不況の嵐が吹き荒れることになった。
自動車工場ではレイオフ、クビ切りが日常化し、一九七八年には百万人だった自動車産業の雇用人口は、八二年には六十六万人に急減している。
巷には失業者があふれ、まで磐石と思われていたグビッグ34が、存亡の危機に立たされることになったのであるもっとも経営基盤の弱かったクライスラー-は、巨額の累積赤字を抱えて倒産寸前に追い込まれた。
以後の四年にわたり、ビッグ34は一九二九年の大恐慌以来という不況に見舞われ、影響は一九九0年代初頭まで続くことになる。
フォードを解雇されたスパ-リックは、身の振り方に悩んでいた。
他の業界からの誘いはいくつかフォードのライバルであるクライスラー-に製品開発担当副社長として迎えられることになった。
スパ-リックは、フォードで挫折した燃料節約型の前輪駆動式小型車を、クライスラーで改めて計画した。
新しい小型車を開発・生産するには、少なくとも十億ドルの投資を覚悟しなければならないこの当時、クライスラーでは二つの新型車開発計画が並行して進められていた。
後輪駆動のHカーと、前輪駆動のKヵーである。
このうち、前者でいけば、投資額は四億ドルですむ時の社長ジョン・リカルドは思いきった決断を行ない、後者を選択したのである。
このとき、まだ第二次石油危機は起こっておらず、前輪駆動の採用に積極的なアイアコッカも、クライスラー-入りしてはいなかった。
フォードを追われたアイアコッカが社長としてクライスラー1入りしたのは、Kカ-の開発が本格化した一九七八年十一月である。
翌年に第二次石油危機が起こり、Kカ-の選択が正しかったことが裏づけられる。
Kカ-は一九八O年秋に発売され、後に打ち出した「五年間五万マイル保証」の新サービスとあいまって、アメリカ市場に好評をもって迎えられた。
クライスラー-は大きな決断を行なった両車種がともに好評を得たことで、と見られていたクライスラー1の業績は急回復することになった。
前輪駆動のKカー。
クライスラー「プリマスアクレイム」1995年型クライスラー-のKカ-、「ミニマックス」を設計したのは、いずれもかつてフォード社で同じ種類の車の設計にかかわっていた人たち、クライスラー-内でくすぶっていた技術者たちだった。
彼らはそれまで、新しい時代に適合した自動車を開発すべきだと主張しながらも取り入れられず、不満を抱き続けていたのである。
再建に成功したことで、アイアコッカの手腕は高く評価された。
開発や生産面だけでなく、合理化においてもしたことで、八0年代半ばには、大統領候補とまで騒がれることになる。
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